路傍の礫石

ふと気が付けば見える、足元を支える小石たち

夜は短し歩けよ乙女(2017)

久しぶりの更新。まだコーヒー&シガレットという作品を見ている途中でしたが、嫁に誘われるまま映画館へ。

 

原作に関しては大学生くらいの頃に「四畳半神話体系」と共に購入したが、積んだまま未読リストに保管中のため、実質予備知識無しと変わらない状態でした。

 

感想としては、久しぶりに映画館で映画を見て良かったと思える作品。大学生特有のあの空気感。親から離れてある程度を自分の裁量で決めていくあの感じや、モラトリアムの独特な、どこか無責任な振る舞いとそれを許容する社会。数ある学生の括りの中でも、これは大学生にしか存在せず、また理解されない世界観。そのモラトリアム漂う心地よい中で、キャラクター達が非常に魅力的に映るのだ。

 

物語で感じるある種の狂騒は、先輩と黒髪の乙女の二人を通して進んでいく。二項対立的に先輩は孤独であり地味であり脇役的に物語は進み、乙女は賑やかであり華やかであり主役的に物語が進む。全くもって共通項が無いように見えるので、物語としては別々の主人公の平行線の物語のように進行しそうだが、そうはならないところに味がある。

 

何故ならば共通項が何もないように見える中で、わずかに光る共通項があるからだ。

 

それは「場の空気」と「酒」である。

 

古来より空気と酒というのものは祭祀において非常に重要なものであり、集団をまとめることにおいて無視出来ないものであった。現代で言うならば酒はそのまま酒で空気は言うなれば煙草である。

 

私が知る限り、見ず知らずの赤の他人と共有が出来る唯一のものだと思う。よくあるシーンでバーのマスターが「あちらのお客様からです」と酒を渡され、目線を向こうにやると見ず知らずの人がグラスを傾けて無言で乾杯するシーンがある。これはよくよく考えると凄いことで、見ず知らずの人から食物(己の体に取込もの)を違和感なく受け取っているのである。これが極端な話でステーキだとか、マクドナルドのハンバーガーだったりすると普通は気味悪がってその場を去るだろう。

 

それと同じように煙草も、寒空の下たまたま煙草を切らしており、喫煙所で隣に吸っている人から「すいません。。。1つ。。」というコミュニケーションが成り立つのだ。

 

そのようなものはずっと昔から大人たちだけの世界のものであり、集団内で一人前と認められないものには許されない神聖なものだったのだ。民族学において、とある集団の成人として認められるための儀式に煙草を吸うというものが例として存在している。

 

だからこそお酒と煙草は大人になってからというのが、無意識下に根付いているので駄目なんだと思う(子供の健康に悪いからという理由であれば、もっと禁止すべきものがあるはずだ)。

 

先輩と黒髪の乙女は、学園祭の夜という「特別で独特で狂騒的な空気」を共有し、物語の中で切れそうで切れない関係性を維持し、最後は風邪で倒れた先輩に「たまご酒」を届けることで二人が交わる物語である。

 

物語を加速させる(人と人のコミュニケーションを潤滑させる)ものは「同じ釜の飯の仲間」という言葉によく現れているなと感じつつ、本日はここで筆を下ろすとします。

コンスタンティン(2005年)

肺癌で死にそうだけど今さら手遅れで止められず、だけど死んで地獄に行きたくないから世界の均衡のために戦うアメリカン・ダークヒーローそれがコンスタンティン

 

キアヌ・リーブスのダルそうにヤレヤレ感を出しながらも、確実に悪魔を仕留めるデビルハンターぶりには男子として想像力が掻き立てられる。

 

何故、ダークヒーローは魅力的なのだろうか?洋物で言えばバットマンだったりスポーンだったり、日本で言えば妖怪人間ベムだったりゲゲゲの鬼太郎だったりいるわけで(かなり古めではあるが、バットマンも古いので比較対象としてはちょうど良いのである)、新しい作品だったら東京喰種のカネキくんとか枚挙に暇がないが、共通して主人公であれ敵役であれ魅力的なのに変わりはない。魅力的な理由は、ダークヒーローの条件にあると思うので、そこを紐解きたい。

 

ダークヒーローには、いくつか条件があると思うが個人的に重要だと思うのが「半端者」であることが大事な要件だと考えている。半端者であることに加えて、スパイスで少し暗い背景を明示されると良いのである。妖怪人間ベムもいつか人間になりたい存在だし、鬼太郎も妖怪でありながら人間の味方だし、カネキくんは人間でありながら喰種でもある。これらはみんな両極端の存在達の中間に位置する第三項として機能している。

 

いつの時代でも新しく改変し続けるものは、秩序と混沌の間に位置する深淵の淵に立つものである(少なくともロラン・バルトは文学においてはそんな言い方をしていた)神話の時代であっても古代メソポタミアでは神々の時代を加速させたのはウルクの王であるギルガメッシュであり(彼は神と人から生まれた子である)日本書紀で言うところでは天照大神の子孫の神武天皇である。

 

彼らは物語を加速させ、変化させ、拡張することを構造的に位置付けられているから魅力的なのだと思う。東京喰種ではカネキくんが出てくるシーンでは何かが起こると期待をしてしまうのも致し方ないことだと思う。

 

そう考えた時にコンスタンティンは何が中途半端かと言うと、彼は人間でありながら人ならざるモノの世界を垣間見ることが出来、そして彼は生きながらにして死んでいる経験がある。つまり彼岸と此岸の狭間に漂い、ステュクス川の渡し守カロンのように常世と現世を行ったり来たりしているのだ。

 

最後のシーンでルシファー相手に中指を立ててざまぁみろと言わんばかりのポーズをして、天国に召されるかと思いきや、ルシファーに延命されて結局死なない中途半端なところも魅力の一部なのだろう(さらにその時に肺癌も治してもらっている)。

 

この厳しい世の中と物語に通じるところは、秩序に己の心身共に全霊を傾注する者たちではなく、何処か反感的で従順でもあるが既存の権力にも半身を置きつつ、新興勢力にも半身を置けるそんな中間項が世の中を変えるのだろう。

グッバイ、レーニン!(2003年)

私はようやく30代になり、論語の言うところの「三十にして立つ」という而立の歳を迎えることが出来た。社会主義という言葉が今よりも現実味を帯びていて、さらに身近に感じることが出来た時代のことを、私は知らない。

 

社会主義思想自体は世界的に見ても資本主義に後れを取るようなものではないし、先進国でもドイツは社会主義政党が与党という立場になっている。日本では社会民主党社会主義インターナショナルに加盟し、食の安全を守るために第一次産業の発展と格差是正のためにジェンダーフリーと所得平準化を目指している。

 

グッバイ、レーニン!はそんな社会主義思想をゆりかごとして育ち、資本主義思想との相克を通して統一を果たしたドイツを舞台とした物語である。主人公のアレックス・ケイナーは自らを取りまく青年期特有の鬱屈した停滞感に辟易しながらも、日々を淡々と過ごしていく青年であった。そんな彼はある時に反体制デモに参加し、憲兵たちと衝突しているところを社会主義信奉者の母にその姿を見られ、母親はそのショックで心臓発作を起こして倒れてしまう。

 

母親は8か月後に奇跡的に意識を取り戻したが、強いショックを受けてしまうと心臓発作が再発し命を落としてしまう危険がある状態であった。しかし、社会主義信奉者である母親はベルリンの壁の崩壊を知らず、市場に流通するマルクも西ドイツのものに変わっていることを知らない。アレックスは母のことを想い、東西ドイツ統一の事実を隠すのである。

 

劇中でも「信じていたものが突然失われた」と言われていた通り、今まで白だったものが黒になってしまい、つま先から頭のてっぺんまで身体的なレベルにまで染み付いたものが、一瞬のうちに変化してしまったのだ。

 

アレックス自身も気づかないうちに、西ドイツへの憧憬がいつの間にか東ドイツへの郷愁へと変化しており、母親を通じて東ドイツという故郷を自らの中に再生産していく。彼自身が述べている通り、いつからか母親に見せるテレビ映像は自らの理想のドイツを表象するようになっている。

 

グッバイ、レーニン!」とは暗示的に東西ドイツ統一を指しているだけでなく、アレックスからすれば故郷との別れでもあり、母親との決別でもあるのだ。彼にとっての東ドイツの象徴はピクルスでもコーヒーでもなく、ベルリンの壁以前で時が止まった母親そのものが東ドイツの象徴となっており、母親の延命そのものが、アレックスにとっての東ドイツ存続の代償行為となっていた。

 

しかし、 いつだって既成概念を破壊するのは新しい世代なのだ。赤ちゃんである自分の孫が立ち上がる姿を見て、母親はアレックスが寝ている隙に自分の足で立ち上がり、資本主義が流入したベルリンの姿を見るのである。赤ちゃんの一人立ちが、母親の自立を促したのである。街の中でヘリコプターに運ばれるレーニン像を見た時に母親は何を思ったのだろうか?

 

劇中のアレックスの独白では、母親は最後まで東ドイツがどのように終わったかの真実を知らずに逝ったとされるが、恋人のララがアレックスの知らないところで母親に真実を告げているシーンがある。母親が結局のところ、アレックスの言葉とララの言葉をどのように感じて逝ったのかは語られない。ただ、一つ確実なのは両ドイツ統一に関して素晴らしいという言葉を残したのは事実だ。

 

既に終焉を迎えた政治思想に関して、それはまだ人々の心の中で息づき、別な形で再生産されることだろう。それはこの「グッバイ、レーニン!」という映画がドイツ史上最大と言っても良い賞賛を得たことに表れている。

 

ドイツ人の多くが、アレックスのような外国への憧れを理解し、それと同時に今は失われた故郷が身体の中で息吹いているのを理解出来るからであろう。それはきっとアレックスの言葉通り「思い出の中で母にまた会える」という言葉が彼らには感覚として分かるからに違いない。

ウルフ・オブ・ウォールストリート(2013年)

初めてまともにディカプリオの映画を見たかもしれない。

 

彼の有名な映画は数あれど、なかなか機会に恵まれず見ることがなかったが、ようやく機会に恵まれた。

 

トレードとマネー、セックスとドラッグ、光と影。この映画が公開された時期はギリシャ危機で西洋が揺れていた時期であり、未だ2008年のリーマンショックの余波は続いており、アメリカはオバマ大統領が再選した時でもある。

 

今は無きアメリカン・ドリームと在りし日のグレート・アメリカへの郷愁を感じさせる映画である。

 

アメリカの大衆映画は、アメリカ人が無意識下に抑圧しているものが物語として表現されたりしているので興味深く見てしまう。同じようなことが近いうちに日本人の無意識の物語として波及してくるのだ。ただし、アメリカ人とは違う感覚ではあるが。

 

この映画の本質は序盤に出てくるとある格言にある。自分たちの扱う株は「バッタもん」の幻であり、客に株を売り逃げさせるな、常に買わせ続けろ。これを人類学的な言葉に置き換えるとこうなる。即ち、我々が取り扱うものは現実には存在しない象徴であり、その象徴は常に誰かの手に渡り続けなければならない。

 

社会はフランスの社会学者であるマルセル・モースの言葉を借りると、贈与という行為を通じ何かを返礼しなければならないという義務感の元で成り立っている。

 

文化人類学マリノフスキーが「西太平洋の遠洋航海者」で世間に公表せしめたトロブリアンド諸島のクラ交易のように、象徴的なものは交換という形で消費されていく。

 

映画のタイトルにもなっているウルフ・オブ・ウォールストリートとは、日本人の感覚からするとウルフ=狼という言葉になにやらファッショナブルで、ワイルドで、どちらかと言うと肯定的に受け取られるような言葉に感じるし、「一匹狼」と「ぼっち」という言葉から感じるニュアンスの違いからはそのように考えるのが妥当だろう。

 

これは元来、日本という国が農耕社会であり、害獣となる鹿や猪といったものを狼は狩る立場にあるため、人に寄り添うものとして立場を得たからである。「狼」という言葉は「大神」に通じ、神社には邪悪を退けるために狛犬が睨みを効かせ、山岳信仰においては山の神そのものと結びついている。現代においても宮崎駿の「もののけ姫」で、山と自然の厳しさと恐怖と猛威を山犬という姿で表現しており、日本人の心の中に狼とは何かしらの形で神秘性を帯びて無意識の海で漂っている。

 

しかし西洋人にとっての狼は、日本人ほど良い地位にはいないのである。これは北欧神話の中にも描かれている通り、大狼であるフェンリルは神々の敵として登場し、太陽を飲み込み、主神オーディンをその牙を持って噛み殺した。また「赤ずきん」や「三匹のこぶた」においても、善良なるものを脅かす存在として描かれ、狼男はバンパイアと並び立つ西洋を代表する怪物となっており、西洋人の宗教観念の根幹に位置するキリスト教においても狼は悪しき立場として描かれている。

 

そう考えると「ウルフ・オブ・ウォールストリート」と呼ばれたジョーダン・ベルフォートは、語弊と誤謬を恐れずに言うならば、西洋人の映画である本作品においてはコメディ的な悪役なのである。

 

しかし、悪役として初めから存在したわけではなく、彼が自らを投じた世界において勝ち上がるにつれ悪として大成していく。古今東西あらゆるゲームにおいて勝ち上がる方法はシンプルで、それは即ち『誰よりも早く自らが参加しているゲームのルールを理解する』ことにある。ジョーダン・ベルフォートがそのルールを理解したのが、最初の上司とのランチシーンなのである。この上司は戦い抜いて来た自らの経験を元に、文化人類学者達と同じような知見に辿り着いている。それは「バッタもん」であり、マリノフスキーの言う「クラ」でもあり、身近なものであれば貨幣でもあり、さらに言えばその辺の小石でも良い。大事なのはそれを自らのところに退蔵せずにすぐに次の場所へグルグルと回し続けるということなのである。この人類の社会形成における本質に気が付いたからこそ、ジョーダン・ベルフォートは我が身の成功を持ってそれを証明したのである。

 

悪として大成したベルフォートはその権威を持って、暴虐を尽くし我が世を謳歌する。では、この悪を成敗した正義の味方は誰になるのだろうか?ベルフォートを弾劾した裁判官?連邦捜査官?ベルフォートの妻?それとも彼の仲間たち?

 

物語の原則ではベルフォートに匹敵する程の登場を重ねた存在が、その対となる立場を得るのが自然であろう。それは映画の初めにベルフォートともに登場し、あまつさえベルフォートから紹介を受けている存在。それは貨幣である。

 

より正確に言うのであれば、貨幣が贈与によってグルグル回り続けるという世界の強制力の前にベルフォートは敗れ去ったのである。彼は大きな間違いを犯したために、取り返しのつかない敗北をしてしまったのだ。彼は自らの資産を隠蔽し退蔵しようとした。物語の序盤に存在した大原則である「象徴的なものは常に交換させ続けなければならない」という法則に背いた結果、様々な枷を背負うことになったのである。そもそも退蔵しようとしなければスイスに行く必要もなく、危険な橋を渡る必要もなかった。だが結果として、彼はスイスの銀行マンに裏切られ、共犯者の義叔母の突然死に追い込まれ、栄光の落日を迎えることとなった。彼は貨幣の持つ象徴的な力の前に敗れ去ったのである。

 

最終的には実刑を受けた彼は、刑期を終えたのちにその卓抜としたセールス力で再起したところで物語は終わる。とある男の隆盛と没落と再起を捉え続けたこの物語の最後に映されたベルフォートを見る多くの人の視線を見ると、ベルフォートの人生を通じて、傷ついたアメリカの再生という新しいアメリカン・ドリームが、アメリカ人達の無意識に根付いた結果、今回のアメリカ大統領選で噴出したように思えてならない。

モーターサイクル・ダイアリーズ(2004)

アマゾンのプライムビデオの一覧で見つけた懐かしい映画。もう10年以上経つのかと思うと、驚くべき時の速さである。つい最近この世を去ったキューバフィデル・カストロ国家評議会議長のこともあり、久し振りに見てしまった。

 

名作はいつ見ても名作であり、決して色褪せず、その時々で感じ入るものが千差万別なところが、きっと名作たる所以なのである。

 

このモーターサイクル・ダイアリーズもいわゆる「名作」のうちの一つなのは観た人には分かってもらえることだろう。

 

時は1952年の南米アルゼンチン、8年後にゲリラヒーローとしてキューバー革命を成功させ、かのジョン・レノンから「世界で一番カッコイイ男」とまで呼ばせた人物、エルネスト・ゲバラがまだ若き医大生であったころの話。

 

物語のプロローグの言う通り、これは偉業の物語ではないのだ。若者が無二の親友と共に南米大陸を縦断した物語だ。

 

その距離はおよそ12,000km、おおよそ日本を1周するくらいの距離である。その距離をオンボロ自動二輪の愛機「ポデローサ号」に乗って親友アルベルト・グラナード共に旅立つ。

 

旅の始まりは、日々の生活に閉塞感を感じた若者二人の無計画のものではあった。しかし、滾る思いは鎮まることはなく、フーセル=熱い男と呼ばれたエルネストにはピッタリなものであったのだろう。

 

道中、トラブルはあったものの若者らしく旅を楽しみ異国の空気と情緒に触れる。

 

だが、その旅行気分も道中にインディアンの夫婦と出会ったことで一変する。夫婦は、土地を追われ、生活の糧を求めて銅山へ働き口を求めて旅をしていたのだ。

 

夫婦と共にチュキ・カマタ鉱山に辿り着いてからエルネストは衝撃を受けるのである。それは白人達に酷使されるインディアン達の姿であった。

 

 アメリカの企業が所有しているチュキ・カマタ鉱山で、現地の人々の扱いや収奪されている様子を見て、世の中に対し疑問を感じ始める。

 

そして、マチュピチュ遺跡に触れ、先住民達の偉大さに感銘を受け、世の中の疑問を深めていく。

 

その後、ペルーでハンセン病の権威の世話になりながらマリアテギの書籍を通じてマルクス主義に触れるのだ。

 

マルクスに触れることで、エルネストの目にはマルクスの言う階級がありありと見て取れたことだろう。

 

チリに入国した直後の観光者として振舞っていたエルネストはもうそこにはいない。見えるのはブルジョワジーによるプロレタリアートの収奪の景色のみであった。

 

それはインディアン達と白人だけではなく、ハンセン病患者と医師達という構造でも同じであった。

 

階級とは自身がプロレタリアートと自覚したものの前にしか立ち現れない。彼我との間にある何かに気づいた人にしか分からないのである。

 

マルクスが偉大なところは、下部構造にいるプロレタリアートこそが社会を形成しているという点にある。

 

人が生きていくには食物を食べなければならず、人は食物を経済活動によって獲得していく。ならば社会を構成する宗教や政治や文化は、全て下部構造たる経済がなければ成り立たないと考えたのがマルクス唯物史観だと理解している。

 

つまり、ブルジョワジーブルジョワジーでいられる所以はプロレタリアート達の振る舞いによって規定されており、だからこそプロレタリアート達の団結が革命を生み、世を変えるのである。

 

療養所はまるでシスター達が定めたルールで、物事が全て進んでいるように見える。それはパパ・カルリートが初めてエルネストにあって握手を求められた時のシーンに現れている。

 

上部構造たるシスターたちが社会を定めているように見えるが、実は下部構造たるハンセン病患者達が療養所を形成せしめる最大の要因なのである。

 

エルネストはそれを療養所にいる短い時間で実体験より学んだ。手袋という外部装置を持ってしか触れられない存在だったはず、最後には皆が手袋を外し始めている。

 

これはシスター達のルールが変わったわけではない。ハンセン病患者みんなの意識と団結により勝ち得た革命なのである。彼らはシスター達を恐れ、シスター達のルールを遵守しようとしていた。だからこそエルネストに対して暗に手袋を付けるように態度で示したのだ。

 

しかし、サッカーを興じるシーンではどうだろうか。誰一人として手袋をしていないことを咎める者はいないのだ。ましてや、ミサに参加していないエルネストに対して食べ物を渡すと言う、シスターへの背信行為も当たり前のように行なっている。団結により生じた変化、これこそが革命なのである。

 

マルクスの言う「団結せよ」をエルネストはこの時に学んだのだろう。世の中に疑問は尽きねども、世の中を変えることが出来ると。

 

それはつまり、南米に住まう全ての収奪された者達の解放への道でもあるのだ。このことをハンセン病患者を通じて学んだのだ。

 

そして、療養所の最後のシーンでアマゾン川を泳いで横断すると言う、とても神話的な行為を通じ、ついにはシスター達までもがエルネストに拍手を送る。

 

療養所を患者みんなで作ってくれた「マンボ・タンゴ号」に乗り、別れを惜しみながらも療養所を去るのである。

 

その後、ベネズエラでエルネストは無二の親友アルベルトと「アディオス!アミーゴ!」と言葉を交わし、アルベルトと別れ一人旅を続けるのである。

 

この映画は偉業の物語ではない。しかし、偉業を支えるのは偉業ではない日々と出会いなのである。

 

この4年後にエルネストは英雄フィデル・カストロと運命の出会いを果たし、わずか82人の同志と共に革命を開始し、ついにはアメリカの息のかかったバティスタ政権を打倒し革命を果たすのである。

 

その革命の帰結にモーターサイクル・ダイアリーズの日々が無関係であるとは決して誰も思わないであろう。

レオン (1994年)

今までに何度か見た映画ではあったのだが、完全版だけは見たことがなかったので、記念すべき最初の記事は「レオン」にしようと思う。記事を書くのを理由に、完全版を見るのはとても良い理由になるからだ。

 

この映画はリュック・ベッソン監督の代表作であると同時に、ナタリー・ポートマンの映画デビュー作品、そしてジャン・レノのブレイク作品である。

 

演技に関しては、ゲイリー・オールドマンの本当に薬物をキメちゃってるんじゃないかと思う演技がとても上手で、ひそかな見どころだと思っている。

 

物語に関しては、一流の殺し屋のレオンと家族を殺され復讐を思う少女マチルダ、この二人の出会いから始まり、そして別れで終わる。日本公開時のキャッチコピーは「凶暴な純愛」ニキータの流れを汲むリュック・ベッソン監督の十八番分野の映画。

 

この映画を見終わった時に感じる緊張感からの解放は、大きな物語を読み終わった充足感を感じる。

 

それは何故か?

 

少なくとも映画の登場人物で幸せになったといえる存在はいないといっても過言ではない。

 

レオンとスタンスフィールドは壮絶な最期を遂げ、マチルダは最愛の弟とレオンを失い、トニーの立場は失墜し、街から薬物が消えることはない。

 

それにも関わらず、この物語を見終わった後に感じるのは満足感なのである。

 

レオンという映画には常に対立するものが立ち現われては消えていき、私たちの心を同じ所に留め置かない。それは暴力と平穏、家族と孤独、生と死、男と女、愛と憎しみ、大人と子供、両端に存在する者たちが常に現れては消えていき、私たちの心に緊張の糸を張らせ、最後まで緩めることを許してくれない。

 

その最たるものがレオンとマチルダである。

レオンは大人であり、男であるが、マチルダは、子供であり、女である。

レオンは寡黙であり、読み書きが出来ない、マチルダはお喋りであり、読み書きが出来る。

レオンは煙草を吸わないが、マチルダは煙草を吸い、レオンは慎重であるが、マチルダは迂闊である。

 

これらは映画のあらゆるシーンを通して語られた物語である。

 

それはマチルダがレオンに言った「私は大人よ、ただ歳を取ってないだけ」という言葉に現れ、レオンの「俺は歳だけは取ったが、これから大人になるんだ」という言葉によって消えていく。

 

または、男性的で暴力の象徴である「銃」と女性的で温もりの象徴である「ミルク」としても現れては消えていく。

 

全ては対立する者たちの上で物語は進んでいくので、ゲイリー・オールドマンが演じるスタンスフィールドが、麻薬取締役局の警察官でありながら麻薬売人であることはある意味当然のことなのである。

 

つまり満足感の理由も、この常に対立する者たちの中にあると思うことは、決して間違いではない。

 

何故ならば、物語の始まりは非常に鬱屈としたものであるならば、その終わりは開放的で充足したものになるべきなのだから。

 

物語の出だしはアパートの最上階で虐待を受けたマチルダが煙草を吸い、レオンが声をかけて始まる。マチルダは父と継母と義理の姉に疎まれており、家族からは更生のために寄宿制の学校に入れられそうになっている。そんな中、マチルダは学校からの電話は取り、母親のふりをしてこう言うのだ「娘は死にました」と。その後、買い物に行っている間にスタンスフィールドにより家族を皆殺しにされる。

 

何とも救いのない話ではあるが、そんなマチルダをレオンが受け入れるのである。初めは煙草を吸っているマチルダに対して声を掛けることから始まり、家族から暴力を振るわれたマチルダにティッシュを渡し、そのお礼にマチルダがレオンの分のミルクを買いに行き、そして買い物中に家族を殺されたことに気づいたマチルダはレオンに助けを求め、レオンはそれに応じた。

 

鬱屈した状態から一つの解放へと進み始める。それはマチルダだけでなく、レオンにとっても同じであった。

 

初めはマチルダの書いた文字を読めなかったレオンが、物語の終盤にはマチルダの手紙を読み、マチルダを助けに行くという象徴的なシーンに現れ、また寡黙で何も語らない男であったレオンが、マチルダに己の過去と気持ちを語る言葉が増えたことで表出する。

 

レオンとマチルダの平穏な日常が描かれるが、その終焉は暴力で演出される。レオンとマチルダが隠れていたアパートに特殊部隊が突入し、レオンはマチルダの尊厳と命を守るために死に、マチルダはレオンの喪失と弟の復讐を果たす。

 

そして、物語の最後は寄宿制の学校でマチルダがレオンの友達である観葉植物を大地に植え

「これで安心ねレオン」という台詞で終わる。

 

観葉植物はこの映画の中において独特な雰囲気をもった存在で、喉に引っかかった魚の骨のように、意識の片隅に常に居座って僅かばかりの主張を常に繰り返す。

 

この観葉植物は二項対立的に進むこの作品の中における唯一の第三項として存在している。

 

物語の中でこの植物は対立するものがいない。両極端に存在するモノの間を不安定に漂うだけの存在なのがこの観葉植物だ。

 

この映画の中における代表的な二極はもちろんレオンとマチルダである。

 

この観葉植物はある時はレオンの方に天秤が傾き、またある時はマチルダの方に天秤が傾く。

 

それはレオン自身が「寡黙なところと根無し草なところがそっくりさ」という言葉からも分かる。それに対してマチルダは「大地に植えれば根も張るわ」と言う。しかし、この観葉植物はある時にはまるでマチルダの象徴になるのだ。

 

それはマチルダ自身が発したように、大地に植えた時である。大地に根を下ろした植物は、これからのマチルダを象徴している。

 

今まで、根無し草で何回もレオンと共に寝ぐらを変えたマチルダが、寄宿制の学校に通い始める。その学校の庭に生える、大きな木の根元に植物を植えるこのシーンは明らかにマチルダとオーバーラップする。植物に対しての「これで安心ねレオン」という台詞は引いてはマチルダ自身への台詞に思えてならない。

 

では、マチルダを象徴する植物の側にいる大きな木は何を象徴しているのか?それを言うのは野暮というものではないだろうか。

 

物語が常に二項対立的に進むからこそ、最後のマチルダの心情は物語序盤のこの言葉から推して知るべしなのである。

 

「大人になっても人生は辛い?」

「辛いさ」

 

この言葉のうちに、物語を見終わった私たちは「これで安心ねレオン」という言葉によって救いを見出すのではないだろうか。