路傍の礫石

ふと気が付けば見える、足元を支える小石たち

ウルフ・オブ・ウォールストリート(2013年)

初めてまともにディカプリオの映画を見たかもしれない。

 

彼の有名な映画は数あれど、なかなか機会に恵まれず見ることがなかったが、ようやく機会に恵まれた。

 

トレードとマネー、セックスとドラッグ、光と影。この映画が公開された時期はギリシャ危機で西洋が揺れていた時期であり、未だ2008年のリーマンショックの余波は続いており、アメリカはオバマ大統領が再選した時でもある。

 

今は無きアメリカン・ドリームと在りし日のグレート・アメリカへの郷愁を感じさせる映画である。

 

アメリカの大衆映画は、アメリカ人が無意識下に抑圧しているものが物語として表現されたりしているので興味深く見てしまう。同じようなことが近いうちに日本人の無意識の物語として波及してくるのだ。ただし、アメリカ人とは違う感覚ではあるが。

 

この映画の本質は序盤に出てくるとある格言にある。自分たちの扱う株は「バッタもん」の幻であり、客に株を売り逃げさせるな、常に買わせ続けろ。これを人類学的な言葉に置き換えるとこうなる。即ち、我々が取り扱うものは現実には存在しない象徴であり、その象徴は常に誰かの手に渡り続けなければならない。

 

社会はフランスの社会学者であるマルセル・モースの言葉を借りると、贈与という行為を通じ何かを返礼しなければならないという義務感の元で成り立っている。

 

文化人類学マリノフスキーが「西太平洋の遠洋航海者」で世間に公表せしめたトロブリアンド諸島のクラ交易のように、象徴的なものは交換という形で消費されていく。

 

映画のタイトルにもなっているウルフ・オブ・ウォールストリートとは、日本人の感覚からするとウルフ=狼という言葉になにやらファッショナブルで、ワイルドで、どちらかと言うと肯定的に受け取られるような言葉に感じるし、「一匹狼」と「ぼっち」という言葉から感じるニュアンスの違いからはそのように考えるのが妥当だろう。

 

これは元来、日本という国が農耕社会であり、害獣となる鹿や猪といったものを狼は狩る立場にあるため、人に寄り添うものとして立場を得たからである。「狼」という言葉は「大神」に通じ、神社には邪悪を退けるために狛犬が睨みを効かせ、山岳信仰においては山の神そのものと結びついている。現代においても宮崎駿の「もののけ姫」で、山と自然の厳しさと恐怖と猛威を山犬という姿で表現しており、日本人の心の中に狼とは何かしらの形で神秘性を帯びて無意識の海で漂っている。

 

しかし西洋人にとっての狼は、日本人ほど良い地位にはいないのである。これは北欧神話の中にも描かれている通り、大狼であるフェンリルは神々の敵として登場し、太陽を飲み込み、主神オーディンをその牙を持って噛み殺した。また「赤ずきん」や「三匹のこぶた」においても、善良なるものを脅かす存在として描かれ、狼男はバンパイアと並び立つ西洋を代表する怪物となっており、西洋人の宗教観念の根幹に位置するキリスト教においても狼は悪しき立場として描かれている。

 

そう考えると「ウルフ・オブ・ウォールストリート」と呼ばれたジョーダン・ベルフォートは、語弊と誤謬を恐れずに言うならば、西洋人の映画である本作品においてはコメディ的な悪役なのである。

 

しかし、悪役として初めから存在したわけではなく、彼が自らを投じた世界において勝ち上がるにつれ悪として大成していく。古今東西あらゆるゲームにおいて勝ち上がる方法はシンプルで、それは即ち『誰よりも早く自らが参加しているゲームのルールを理解する』ことにある。ジョーダン・ベルフォートがそのルールを理解したのが、最初の上司とのランチシーンなのである。この上司は戦い抜いて来た自らの経験を元に、文化人類学者達と同じような知見に辿り着いている。それは「バッタもん」であり、マリノフスキーの言う「クラ」でもあり、身近なものであれば貨幣でもあり、さらに言えばその辺の小石でも良い。大事なのはそれを自らのところに退蔵せずにすぐに次の場所へグルグルと回し続けるということなのである。この人類の社会形成における本質に気が付いたからこそ、ジョーダン・ベルフォートは我が身の成功を持ってそれを証明したのである。

 

悪として大成したベルフォートはその権威を持って、暴虐を尽くし我が世を謳歌する。では、この悪を成敗した正義の味方は誰になるのだろうか?ベルフォートを弾劾した裁判官?連邦捜査官?ベルフォートの妻?それとも彼の仲間たち?

 

物語の原則ではベルフォートに匹敵する程の登場を重ねた存在が、その対となる立場を得るのが自然であろう。それは映画の初めにベルフォートともに登場し、あまつさえベルフォートから紹介を受けている存在。それは貨幣である。

 

より正確に言うのであれば、貨幣が贈与によってグルグル回り続けるという世界の強制力の前にベルフォートは敗れ去ったのである。彼は大きな間違いを犯したために、取り返しのつかない敗北をしてしまったのだ。彼は自らの資産を隠蔽し退蔵しようとした。物語の序盤に存在した大原則である「象徴的なものは常に交換させ続けなければならない」という法則に背いた結果、様々な枷を背負うことになったのである。そもそも退蔵しようとしなければスイスに行く必要もなく、危険な橋を渡る必要もなかった。だが結果として、彼はスイスの銀行マンに裏切られ、共犯者の義叔母の突然死に追い込まれ、栄光の落日を迎えることとなった。彼は貨幣の持つ象徴的な力の前に敗れ去ったのである。

 

最終的には実刑を受けた彼は、刑期を終えたのちにその卓抜としたセールス力で再起したところで物語は終わる。とある男の隆盛と没落と再起を捉え続けたこの物語の最後に映されたベルフォートを見る多くの人の視線を見ると、ベルフォートの人生を通じて、傷ついたアメリカの再生という新しいアメリカン・ドリームが、アメリカ人達の無意識に根付いた結果、今回のアメリカ大統領選で噴出したように思えてならない。