路傍の礫石

ふと気が付けば見える、足元を支える小石たち

グッバイ、レーニン!(2003年)

私はようやく30代になり、論語の言うところの「三十にして立つ」という而立の歳を迎えることが出来た。社会主義という言葉が今よりも現実味を帯びていて、さらに身近に感じることが出来た時代のことを、私は知らない。

 

社会主義思想自体は世界的に見ても資本主義に後れを取るようなものではないし、先進国でもドイツは社会主義政党が与党という立場になっている。日本では社会民主党社会主義インターナショナルに加盟し、食の安全を守るために第一次産業の発展と格差是正のためにジェンダーフリーと所得平準化を目指している。

 

グッバイ、レーニン!はそんな社会主義思想をゆりかごとして育ち、資本主義思想との相克を通して統一を果たしたドイツを舞台とした物語である。主人公のアレックス・ケイナーは自らを取りまく青年期特有の鬱屈した停滞感に辟易しながらも、日々を淡々と過ごしていく青年であった。そんな彼はある時に反体制デモに参加し、憲兵たちと衝突しているところを社会主義信奉者の母にその姿を見られ、母親はそのショックで心臓発作を起こして倒れてしまう。

 

母親は8か月後に奇跡的に意識を取り戻したが、強いショックを受けてしまうと心臓発作が再発し命を落としてしまう危険がある状態であった。しかし、社会主義信奉者である母親はベルリンの壁の崩壊を知らず、市場に流通するマルクも西ドイツのものに変わっていることを知らない。アレックスは母のことを想い、東西ドイツ統一の事実を隠すのである。

 

劇中でも「信じていたものが突然失われた」と言われていた通り、今まで白だったものが黒になってしまい、つま先から頭のてっぺんまで身体的なレベルにまで染み付いたものが、一瞬のうちに変化してしまったのだ。

 

アレックス自身も気づかないうちに、西ドイツへの憧憬がいつの間にか東ドイツへの郷愁へと変化しており、母親を通じて東ドイツという故郷を自らの中に再生産していく。彼自身が述べている通り、いつからか母親に見せるテレビ映像は自らの理想のドイツを表象するようになっている。

 

グッバイ、レーニン!」とは暗示的に東西ドイツ統一を指しているだけでなく、アレックスからすれば故郷との別れでもあり、母親との決別でもあるのだ。彼にとっての東ドイツの象徴はピクルスでもコーヒーでもなく、ベルリンの壁以前で時が止まった母親そのものが東ドイツの象徴となっており、母親の延命そのものが、アレックスにとっての東ドイツ存続の代償行為となっていた。

 

しかし、 いつだって既成概念を破壊するのは新しい世代なのだ。赤ちゃんである自分の孫が立ち上がる姿を見て、母親はアレックスが寝ている隙に自分の足で立ち上がり、資本主義が流入したベルリンの姿を見るのである。赤ちゃんの一人立ちが、母親の自立を促したのである。街の中でヘリコプターに運ばれるレーニン像を見た時に母親は何を思ったのだろうか?

 

劇中のアレックスの独白では、母親は最後まで東ドイツがどのように終わったかの真実を知らずに逝ったとされるが、恋人のララがアレックスの知らないところで母親に真実を告げているシーンがある。母親が結局のところ、アレックスの言葉とララの言葉をどのように感じて逝ったのかは語られない。ただ、一つ確実なのは両ドイツ統一に関して素晴らしいという言葉を残したのは事実だ。

 

既に終焉を迎えた政治思想に関して、それはまだ人々の心の中で息づき、別な形で再生産されることだろう。それはこの「グッバイ、レーニン!」という映画がドイツ史上最大と言っても良い賞賛を得たことに表れている。

 

ドイツ人の多くが、アレックスのような外国への憧れを理解し、それと同時に今は失われた故郷が身体の中で息吹いているのを理解出来るからであろう。それはきっとアレックスの言葉通り「思い出の中で母にまた会える」という言葉が彼らには感覚として分かるからに違いない。