路傍の礫石

ふと気が付けば見える、足元を支える小石たち

夜は短し歩けよ乙女(2017)

久しぶりの更新。まだコーヒー&シガレットという作品を見ている途中でしたが、嫁に誘われるまま映画館へ。

 

原作に関しては大学生くらいの頃に「四畳半神話体系」と共に購入したが、積んだまま未読リストに保管中のため、実質予備知識無しと変わらない状態でした。

 

感想としては、久しぶりに映画館で映画を見て良かったと思える作品。大学生特有のあの空気感。親から離れてある程度を自分の裁量で決めていくあの感じや、モラトリアムの独特な、どこか無責任な振る舞いとそれを許容する社会。数ある学生の括りの中でも、これは大学生にしか存在せず、また理解されない世界観。そのモラトリアム漂う心地よい中で、キャラクター達が非常に魅力的に映るのだ。

 

物語で感じるある種の狂騒は、先輩と黒髪の乙女の二人を通して進んでいく。二項対立的に先輩は孤独であり地味であり脇役的に物語は進み、乙女は賑やかであり華やかであり主役的に物語が進む。全くもって共通項が無いように見えるので、物語としては別々の主人公の平行線の物語のように進行しそうだが、そうはならないところに味がある。

 

何故ならば共通項が何もないように見える中で、わずかに光る共通項があるからだ。

 

それは「場の空気」と「酒」である。

 

古来より空気と酒というのものは祭祀において非常に重要なものであり、集団をまとめることにおいて無視出来ないものであった。現代で言うならば酒はそのまま酒で空気は言うなれば煙草である。

 

私が知る限り、見ず知らずの赤の他人と共有が出来る唯一のものだと思う。よくあるシーンでバーのマスターが「あちらのお客様からです」と酒を渡され、目線を向こうにやると見ず知らずの人がグラスを傾けて無言で乾杯するシーンがある。これはよくよく考えると凄いことで、見ず知らずの人から食物(己の体に取込もの)を違和感なく受け取っているのである。これが極端な話でステーキだとか、マクドナルドのハンバーガーだったりすると普通は気味悪がってその場を去るだろう。

 

それと同じように煙草も、寒空の下たまたま煙草を切らしており、喫煙所で隣に吸っている人から「すいません。。。1つ。。」というコミュニケーションが成り立つのだ。

 

そのようなものはずっと昔から大人たちだけの世界のものであり、集団内で一人前と認められないものには許されない神聖なものだったのだ。民族学において、とある集団の成人として認められるための儀式に煙草を吸うというものが例として存在している。

 

だからこそお酒と煙草は大人になってからというのが、無意識下に根付いているので駄目なんだと思う(子供の健康に悪いからという理由であれば、もっと禁止すべきものがあるはずだ)。

 

先輩と黒髪の乙女は、学園祭の夜という「特別で独特で狂騒的な空気」を共有し、物語の中で切れそうで切れない関係性を維持し、最後は風邪で倒れた先輩に「たまご酒」を届けることで二人が交わる物語である。

 

物語を加速させる(人と人のコミュニケーションを潤滑させる)ものは「同じ釜の飯の仲間」という言葉によく現れているなと感じつつ、本日はここで筆を下ろすとします。